「転校生」

 この作品に出会ったのは高校一年生のある夏の日であった。本作のことを想うとき、直ぐさま脳裏をかすめる言葉は「夏の匂い」である。本作程夏の匂いに満ちた映画を僕は知らない。「転校生」で描かれる夏は、例えば黒沢明監督の「野良犬」で登場する、汗の滴り落ちるむしむしと茹だるような夏ではない。それは何処かカラッとして、木陰では涼よかな風の流れる、青春の湧き上がる力に充ちた思い出の夏の風景なのだ。導入部と終結部のみ白黒映像なのは「オズの魔法使い」にヒントを得ていることは余りにも有名。ちなみに「時をかける少女」では、原田知世の部屋に「オズ…」のポスターが貼ってあった。ポスターと云えば、「転校生」で一夫の家の塀に貼ってあるポスターが、映画の時間の経過と共に、「駅馬車」「アパッチ砦」「ラスト・シューティスト」と変わってゆく(全て大林監督のこよなく愛する、ジョン・ウェイン主演作)。今は亡き薩谷美術監督のアイディアだそうだ。
(Ad./OB950267)

 映画館に足を運んだのは、地元が舞台になっているからだった。まさか、十年以上たっても、ファンクラブに入っているとは、思わなかった。この話の中の一美の祖母の死に関するエピソードに笑いながら、その自然さに「あぁ、こういうとらえ方があったのだ」と感心した。結局、それでハマったのだ。
その死や死者との距離のとり方が、好きだ。
(Y.K./OB940048)

 僕は今、15年ぶりにスクリーンで見た「転校生」に心から感動しています。
最初に見たときは、松竹系で公開されたときで大林監督を特別に意識して見てなかったので 何だか今までの作風と違うな、というくらいにしか思っていませんでした。当時映画を見た感想を書いていたノートには「思いがけない佳作」と記していたので、それなりに感動していたようですが。
 15年ぶりにスクリーンで見ると「初めて見た映画、まるで違う映画みたい」に新鮮な感動でした (フィルムの状態は非常によくて、まるでニュープリント)。 モノクロ画面 の微妙にブルートーンがかかっているところやカラー画面で見る夏の尾道の陽ざしの色などビデオやLDとはまるで違う映像の美しさ。阪本善尚撮影監督のこだわりがあふれていました。さらに船や踏切、蝉の鳴き声のなどの尾道の音も、本当に情感を盛り上げる仕上がり。こちらは仕上げプロデューサーという肩書きでもクレジットされている音響デザイナー・林 昌平さんの功績によるところでしょうか。
とにかく何度も見ているビデオやLDでは気がつかなかった、こんな小さなディテールの数々が大きなスクリーンでははっきり感じ取ることができるんですね。
 ところで僕はこの「転校生」を見る度に想像することがあります。もしこの物語が「尾道弁」で描かれていたら一夫と一美の運命は変わっていたのではないか、と。一夫は生まれてからずっと尾道育ち。一美は神戸からの転校生。そう、もし心と身体が入れ替わったのなら、一夫は女の子のような態度に加えて「神戸弁」に、一美は男の子のような態度に加えて「尾道弁」に変わってしまうはず。でも、その場合の展開や結末までは考えつくことはできませんが。(P.S./どうして監督が「尾道弁」を使わないかはPSC刊「A MOVIE BOOK 尾道」のP130をご参照ください)
〜1997年4月19日、広島市映像文化ライブラリーで「転校生」を見て
(N.H./OB940038)


「時をかける少女」

 和子と深町がすれ違う一瞬、しかしまるで永遠の時を刻むかのような映画のラストシーン。何というめくるめく映像!あの眩暈を催すような撮影テクニックは、ヒッチコックが「めまい」に於いて、撮影監督と共に編み出した技術で、日本では大林監督が初めてコマーシャルで使い監督自ら「逆ズーム」と命名した。(例えばスピルバーグも「ジョーズ」等で愛用している。)そして映画のエンド・タイトル。原田知世が、あたかもミュージカルのように、主題歌を歌いながら、本編の名場面 を駆け抜ける。何という幸福感だろう。さみしいけれど、でもそれが至福の時であるという、それこそが、大林映画が常に内包している主題である。「転校生」にTVで出会った僕にとってのこの作品が、初めて映画館で見た大林映画であった。満員の映画館で、僕は幸せで胸がいっぱいになった。そして一生この監督の映画と共に生きようと想った。16歳のことである。
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Ad./OB950267)

 昔、NHKで「タイムトラベラー」という番組があった。原作「時をかける少女」筒井康隆著。強く心に残っている。だから、芳山和子は原田知世ではない。だけど、タイルの小径を歩いた少女は確かに芳山和子だった。あのとまどい、不安、おそれは、なつかしさをもっていた。ケンソゴルもそうだった。
 正直に言って、二番だけど、好きは好き。
Y.K./OB940048


「さびしんぼう」

 どちらがどちらを真似したと云うわけではないれけれど、そこに込められた想いが似通 った映画たちというものがある。それらを僕は「姉妹のような映画」と呼んでいる。「兄弟のような」でも良さそうなものだが、何故かしっくりこない。ひとつの映画を愛することはひとりの女性に恋することに似ている。そう、僕にとっては映画は女性名詞なのだ。閑話休題。さて「姉妹のような映画」の代表として、トリュフォーの「恋のエチュード」と「突然炎の如く」を挙げよう。原作者も監督も一緒だから当然といえば当然だが、両者の男女関係は表裏一体となっている。「冒険者たち」と「グランブルー」もまるで姉妹のようだ。「レオン」=(「グロリア」の冒頭部+「ニキータ」+「シベールの日曜日」)÷3という公式もある。閑話休題PART2。
 さて「さびしんぼう」である。アメリカ映画「ある日どこかで」を観たとき、余りにも「さびしんぼう」を連想させる点が多いのに驚いた。タイム・スリップ、オルゴールの使い方、そしてピアノの調べ。音楽に関して云えば、「時をかける少女」の曲と「ある日どこかで」のジョン・バリーの音楽が余りにも類似しているのには驚かざるを得ない。この頃の大林映画は、TV作品「麗猫伝説」を含め、かなり「ある日どこかで」の影響下にあったことが窺われる。誤解のないように云っておくが、だからといって非難している訳ではない。そういうことも認識した上でなお、僕はどの作品も愛して止まないのだ。それだけこれらの映画達が独自の力・魅力を持っているということなのだろう。
 本作に対し、僕は屈折した愛情を抱いている。尾美としのりと、富田靖子演じるふたりの“さびしんぼう”との関係は、胸が締め付けられる程いとおしく、ものぐるほしいが、内藤忠司助監督がシナリオを担当した、周囲の人たちが繰り広げる大騒ぎは、その意図に反して少しも笑えず、かえって哀しくなる。この作品は孤独な愛の物語であり、監督の内面 を今までになく吐露したものだけに、商業映画としてのバランス感覚で加えられたギャグ・シーンなのだろうが、本当に必要だったろうか。
(Ad./OB950267)

 僕たちファンの間では、「さびしんぼう」のラストシーンについて議論されることがよくあるようです。それはまた人それぞれにこの作品について大事な思い入れがあることの証なのだと思うから、僕自身は直接その中に入ることは避けてきたけれど。監督自身も「その答えは出していません」とPSC刊「A MOVIE BOOK 尾道」の中で表明しています。しかしここではあえてこの映画のラストシーンの解釈について書いてみたくなった。それは初めて劇場で見たときの「19歳の僕」の解釈と大人になってスクリーンで再会したときの「31歳の僕」の解釈の違いについての言及です。でもこれは、分かっている人には何でもない当り前の解釈であり、大事な思い入れがある人には大きなおせっかいになってしまうに違いないから以下の文章は無視してください。
 さて、そのラストシーンの解釈とは大人になってお経をあげるヒロキの隣に座っている女性(=奥さん)が百合子さんであるかどうかという点にあります。
 19歳の僕にとってのラストシーンは、それがヒロキの想いが通じて、いろんな困難を乗り越えながら百合子さんと結婚し、幸せに暮らしているというものです。19歳の僕には今もピアノの上に置かれていたオルゴールはあの時、百合子さんに渡した物という以外に考えられません。基本的に僕はこれからもその解釈を信じ続けたいと思っています。それは僕の人生において純粋なままの自分でいることに誇りを持っていた「19歳の僕」との約束でもあります。
 ところが31歳の僕が見たラストシーンは、そうではない解釈の仕方があるんだなという「気づき」の結果 というところです。それは僕自身にとって少しは悪知恵の働く大人になったという証明でもあり、少年の純粋さを失ってしまったというある種残酷な宣告でもあるように感じます。ではその解釈について。
 31歳の僕が見たラストシーン、それはヒロキが百合子さんとは別の人と平凡な結婚をして、百合子さんとそっくりの子供を作る。そしてその女の子に百合子という名前をつけて、そのままだんだんオジイサンになっていく。というものです。
 その伏線はさびしんぼうが百合子さんのチョコをヒロキに届けたシーンで舞台劇について説明する台詞に隠されているように思います。「ひとりの女の子がね、ステキな男の子に恋して、そして失恋するの」「男の子はね、ピアノがそれは上手なの。で、お別 れにね、女の子のために『別れの曲』弾いてくれるの。そのメロディーとその恋をね、女の子は一生忘れないの」「そして女の子はね、別 の人と平凡な結婚をして、その男の子とそっくりの子供を産むの。そしてその子に男の子と同じ名前をつけて、そのままだんだんオバアサンになっていくの」
 この台詞は、さびしんぼう(16歳のタツコ)と大人になったタツコ(ヒロキの母)の人生を暗示する二重構造であることはすぐに気がついていたのですが、かたくなに「19歳の僕」の解釈を信じていた今までの僕は、まさかヒロキの人生をも暗示する三重構造であることには気がつかなかったという訳です。
 あのタツコが考えた舞台劇のストーリーは、この映画のストーリー上の重要な仕掛けであるとともに、大林監督が考えるロマンティックな恋愛の摂理なのですね。監督自身、映画は作り手だけでなく最終的にはファンの皆さんがいて初めて完成するものだ、といった発言をよくされています。ファンからの「三部作を見たい」という声に応えて作られたこの作品は、まさにこの仕掛けによって見る人一人一人のストーリーを感じることができるという素晴しい完成度を持っていることに気づくと同時に、改めて深い感銘を受けてしまいました。
〜1997年4月25日、広島市映像文化ライブラリーで「さびしんぼう」を見て
(N.H./OB940038)


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